前回は団地の風景を中心に紹介いたしましたが、今回は、団地の間に走る緑道と、団地のルーツについて。 です。 赤羽は戦争の影響を大きく受けた町でした。
赤羽自然観察公園にも行ってみましたよ。
鉄道の引込線だった緑道
団地の間をすり抜けて走る緑道があります。
分かりやすいデザインですね。いや、そのまんまというべきか。
ここは昔、鉄道の引込線でした。
どんどん進むと、一般道に出ます。
つきあたり。島下公園横 |
その奥に、また、細い道があります。
しばらく進むと、また突き当ります。
引込線は、ここまで伸びてました。
国立スポーツ科学センター |
鉄道敷地の形に合わせて道や建物が作られれば、このように、線が地図に残るのですよ。
では、引込線の行きついた場所…現在、国立スポーツ科学センターなどがある地域には、何があったのでしょうか?
軍都赤羽と、桐ヶ丘団地のルーツ
こちらは、1944年の航空写真です。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより
http://bit.ly/11fqmNC
これは何だ? …と調べてみたら、軍事基地!
そして、赤羽台・桐ヶ丘も、元々は、軍事基地だった!
より大きな地図で 赤羽台・桐ヶ丘は元々… を表示
国立スポーツ科学センターのエリアは、戦前の兵器庫。
赤羽台団地は被服庫。
桐ヶ丘団地には火薬庫。
国立スポーツ科学センターと赤羽台団地の間の敷地も、戦前は軍事基地で、戦後も長らく陸上自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地でありました。
大正時代の地図を見ると「火薬庫」「兵器庫」「被服庫」と、しっかり記されております。
…ウェブに載せれるかな? 画像サイズを考慮し出所が記されていれば大丈夫そうなので、載せます。
この地図画像は、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」(©谷 謙二)により作成したものです。
この地図画像の元である地図は、国土地理院の地形図[2万5000分の1 赤羽 大正6年測図 大正8年12月28日発行]です。
赤羽は、軍事の街だったんですねぇ。 知らなかった。
明治時代にできた、これらの軍事基地は、赤羽に人が集まるきっかけになったのでしょう。
また、桐ヶ丘の火薬庫には、終戦直後、引き揚げ員など行き場を失った人々が集まって生活していたそうです。赤羽郷と言われたとか。桐ヶ丘団地のルーツですね。
戦争の影響で人が集まった赤羽も、終戦後、軍の施設は段階的に、団地やレクリエーション施設などに生まれ変わりました。
こちらが、その1つ、自衛隊赤羽分屯地跡にできた、赤羽スポーツの森公園と、赤羽自然観察公園です。
自然観察公園は窪地(谷戸地形)の有効活用でありましょう。
湧水からは小川が流れ、子供達がザリガニなどを捕って遊んでいました。
そして、こんな施設も。
北区ふるさと農家体験館 |
どんな体験をするのかと思えば…
水田です! 稲作体験ですね!
水田、ここにもあったんだ~。 私の知ってる東京23区の水田はこれで3つ目です。駒場のケルネル田んぼ、小石川後楽園、そして、ここ、北区ふるさと農家体験館。
それでは、最後に、東京23区らしくない風景で、締めくくりたいと思います。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
参考文献
- 北区史 現代行政篇
- 三冬社 昭和30年・40年代の北区―なつかしい昭和の記録 東京北区書店組合
桐が丘団地
返信削除塚田まなみ
削除近所なのでとても興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。
返信削除こんにちは。60年前に赤羽台団地に住んでいました。当時はこの引込線跡にまだ線路が残っていて、子どもの遊び場になっていたのを覚えています。桐ヶ丘の体育館はその頃からありましたが、自然観察公園はまだ赤羽分屯地でした。赤羽分屯地には戦車が走っていた記憶があります。懐かしく思う情景です。
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