前回は、築地川・桜川(八丁堀)周辺でしたが、今回は、三十間堀と汐留川と外堀です。
小さくても昭和モダンの薫る水谷橋公園… 閉館した銀座シネパトス… それから、領土問題。
前回の繰り返しですが…
こちらは、昭和初期の銀座・築地にあった川を地図に書き込んだものです。
昭和初期の川の跡を歩いてみました。
2回の記事に分けて掲載いたします本企画。 前回は築地から築地川や八丁堀の風景を載せましたが、今回は、三十間堀と汐留川と外堀です。
京橋川と三十間堀の交差地点から、反時計回りで数寄屋橋まで、反時計回りで歩きました。
ちなみに、こちらは、明治初期の川の跡。
それでは行ってみましょう。
水谷橋公園は小さな昭和モダン
首都高の東銀座出口。そのわきにある公園が水谷橋公園。
ここは昔、京橋川と三十間堀の交差地点でした。
北方向(京橋方向)を見た風景 |
東京の変化は何も戦後からはじまった事ではない。 江戸時代から常に変化し続けてきた。 という、いい例ですね。
水谷橋公園から南方向を向きました。
目の前の小道とビルが、昔の三十間堀。 という事になります。
トイレも昭和モダンといった感じですし、12本の電燈には十二支の彫刻があしらわれています。
三十間堀跡と、銀座シネパトス。
この小道と両脇のビルが、昔、川だった。
…と想像しながら南へ歩きます。
三十間堀が埋め立てられたのは戦後まもなく。
その理由は、東京大空襲のがれき処理のため。 堀にがれきを埋めて片づけ、埋め立てた土地を売り、がれき処理費用にあてる。 という方法がとられました。
実に合理的です。
…そして、三十間堀と晴海通りが交わる所にあるのが…
いや、あったのが…
銀座シネパトス。 三原橋地下街。
実は閉館する前に銀座シネパトスで映画を見たことがありますが、時折、地下鉄日比谷線と思われる轟音が響き、それが独特の緊張感を醸し出していたのを覚えています。
…東京が時と共に変化するのは、東京の性のようなものだけど、再開発と、情が入る隙間を共存させることはできないものか… と思うんですよね。
シネパトスからさらに南へ。
突き当りに見えるのが、旧汐留川。
三十間堀の説明版 |
汐留川と外堀は埋められ、領土問題が生まれた
昔の汐留川は、今は首都高とテナントビルです。
橋らしさが残っている所もあります。
首都高の下にあるテナントビルは銀座ナイン。
ところで、
このテナントビルの住所が、ちょっと面白いのです。
それは「東京都中央区銀座8-10先」
「先」って何なのか? というと、要するに、ちゃんとした住所が決まってない。
川を埋め立てて首都高を作り、その間に商業テナントを置くスペースができたのはいいけれど、元々が川だったせいで、住所が無いのです。
だったら作ればいいじゃないか… と思いますが、ここは区の境。 中央区と港区、どちらのものなのか? という、領土問題があるせいで、埋め立てられてから半世紀ほど経ってるにもかかわらず、住所未確定なのです。
土橋交差点。
交差点には橋の名前が残っています。
昔の外堀のあとを、有楽町方向へ歩きます。
この高速道路と建物は、昔の外堀。
ここも、住所未確定。
住所は未確定でも、昔ここに橋があった事は確定してます。
今でもちょっと特別なイメージの数寄屋橋
そして数寄屋橋に到着。
数寄屋橋のイメージがちょっといいのは、戦後のラジオドラマ「君の名は」の影響が、今もなおある証拠。
放送時は女湯がカラになったという話は、本当なのだろうか?
…たしかに川に橋がかかってますねぇ。
こういう展示をしているのは、やはり数寄屋橋が、ちょっと特別な橋な証拠ですね。
近くの公園には「めぐりあいの泉」なる、ドラマをモチーフにしたと思われるスポットもありました。
2回にわけて掲載いたしました「中央区の昔の川(掘割跡)を歩いてみた」いかがでしたでしょうか。
最後に…
これは数寄屋橋からさらに北に行ったところにある、銀座インズ。
ここも昔は外堀でしたが、銀座インズは元々「有楽フードセンター」といい、それは、外堀の埋め立てや首都高の建設とセットで計画された事業でした。
で、この銀座インズも、住所未確定で…
インズ1は「東京都中央区銀座西3丁目1番地先」
インズ2は「東京都中央区銀座西2丁目2番地先」
インズ3は「東京都中央区銀座西1丁目2番地先」
となっています。 (以上公式サイトより)
この住所の面白い所はもう1つありますね。 「銀座西」などという住所は、地図を見渡しても、見つかりません。これは?
これ、調べてみると、開業当時の住所なんですね。 銀座西という住所が廃止されても、領土問題のせいで、辛くも生き残っているというわけです。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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