はたして、今も高級住宅街なのか? 確かめたくて、行ってきました。
目白文化村は中井駅の北にあった
目白文化村を目指すために、やってきました。 中井駅。
西武新宿線です。 西武というのは1つのポイントですよ。
中井駅前は、ちょっとした商店街です。
中井から北へ。
中井の北は崖になっており、坂が多いです。
趣のある坂の風景…
周りの家も立派で、所得高めです。 さすが目白。
これは、目白文化村も期待できそう?
中井東公園 |
空の高い公園も発見。 中井東公園です。
公園のそばから見えるのは、山手通り。
遠くには新宿副都心が見えます。
こちらは池袋側。
…東京23区で、遮るものが無く遠くまで風景が見える所って、意外と少ないんですよねぇ。
いい景色は、崖を削って作った大通りのそばにあったりします。 ここの他には、板橋区の西台とか。
そろそろ、目白文化村!
目白文化村とは
そもそも目白文化村とは、箱根土地という会社が開発した住宅地です。 箱根土地は現在の西武であります。
箱根土地は1914年(大正3年)に土地の購入を開始し、8年後の1922年(大正11年)に分譲を開始しました。
電気・水道・ガス・下水道の設備を整え、テニスコートや相撲柔道道場などの施設もあったとの事。 一時は箱根土地の本社も移すほどの力の入れようだったそうです。
で、その場所は、中井駅の北の高台。 そこに、第1から第4の分譲地があったとされています。
目白文化村の場所(おおよそ) |
色塗りはおおよそですし、そもそも、第1の一部分を第2としている情報もあるんですよね。
東京時層地図で大正期の地図を見てみると、後に目白文化村となる場所に「不動園」というのが見えます。
実は箱根土地は最初からこの地で宅地開発をしようとしていたわけではなく、ちょっとした遊園地を作るつもりだった。 という話もあるのです。
そして、第1文化村は不動園のエリアだけかもしれないのです。 ものの本を見ても、第1は正方形に近い形をしていますし。
こうかもしれない。 |
…まぁ、詳しくは、目白文化村で検索して、他のサイトをご覧ください(丸投げ!)
(この地図は国土地理院の基盤地図情報(数値標高モデル)とカシミール3Dを用いて作成しました) |
目白文化村だった場所の現在の風景です。
戦前の代表的な住宅街は、今もそのブランドに恥じぬ高級住宅地なのか? それが知りたかったのです。
第2文化村南部は割と高級
…というわけで、まずは第2文化村の南部から。
ふむふむ。
なかなかのグレードの家が建っております。
やはり目白文化村は健在なのでしょうか?
新目白通りを渡ると、普通に
…ところが、新目白通りを渡ると…
…あれ?
…割と普通なような。
…この建物は、当時の雰囲気を醸し出してますが、どうなんでしょう?
ていうか、場所によっては、めっちゃ下町の風景じゃないですか。
ところで、ここは窪地になっています。
奥に登り階段が少しだけ見えるのがお分かりいただけますでしょうか?
(この地図は国土地理院の基盤地図情報(数値標高モデル)とカシミール3Dを用いて作成しました) |
…不思議です。
なんで、今の西武は、当時の箱根土地は、窪地を宅地開発したのでしょう?
住宅として高く売れる立地は、日当たりのよい高台だと思うのですが。
めっちゃ下町の風景じゃないか |
そして、不思議な事は、もう1つ。
なぜ、目白文化村は、お世辞にも高級とはいえないレベルまで成り下がってしまったのでしょうか。
大幅に地形が変わった第4文化村
第4文化村があったとされる場所を目指します。
現在は、おおよそ高級住宅には適さないような、日の当たりにくい窪地となっています。
(この地図は国土地理院の基盤地図情報(数値標高モデル)とカシミール3Dを用いて作成しました) |
それは、おそらく、山手通りの建設による、大幅な地形改造が行われたためです。
山手通りが通る前は、ここはもっと日当たりのよい場所で、さきほど第1文化村でお見せした窪地とつながっていたのでしょう。
第3文化村も普通でした
第3文化村だったとされるエリアにも行ってみました。
…うん。普通。
結局、目白文化村という名前にふさわしい高級住宅地は、第2文化村の南部にのみ残っている事が、実際歩いてみて、実感しました。
第2文化村の南の外側も高級感ありました。 文化村は南に移動した…と言えなくもないと思います。
目白文化村の名残は…延寿東流庭園に?
第2文化村だったエリアに、公園が1つあります。
その名も、延寿東流庭園。
…かっちょいい名前ですねぇ。 (でも、少しだけ、ゲームのテイルズシリーズの必殺技名のような中2感も感じるのは私だけ?)
この庭園は、土地の所有者が、目白文化村の名残を残したいという意向をもって新宿区に寄贈されたものです。
それでは、なぜ、目白文化村は衰退したのでしょう?
理由の1つは、太平洋戦争。空襲です。 1945年4月13日夜から14日未明にかけての空襲で、目白文化村は壊滅的な被害を受けたそう。
他の理由としては、大通りの開通で街が分断された事と、土地の所有者が相続のために土地を分割して売却するケースが増えた事が考えられます。
…やっぱり空襲が大きいのかなぁ。 って気がしますが、空襲に遭っても目白文化村というブランドイメージが強ければ、存続できたのではないか。 とも思います。 どうなんでしょうねぇ。
田園調布・成城・ときわ台・新町分譲地 と 目白文化村は、どこが運命の分かれ道だったのか… 謎は謎のままです。 (リンク先はすべて本ブログの記事です。よろしければ)
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
参考文献
目白文化村 (都市叢書) 野田正穂・中島晃子 編 日本経済評論社
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