瑞江駅前(この写真だけ2年前です^^;) |
昔から都内に住んでいなければ、東京はどこも同じように発展してきたと思ってしまいますけど、瑞江駅ができたのは1986年。 意外と最近なんですよね。
江戸川区の他のエリアは、東西線の葛西駅は1969年。 総武線の平井駅と小岩駅は1899年。
今の様子だと、なんとなく、江戸川区の中心地は葛西かな…という印象があるのですが(銀座日本橋へのアクセスもいいし)、区の北側から発展していったわけです。
goo古地図で昭和38年(1963年)の航空写真を見ると、当時の発展の様子がわかりやすいです。
そう言われると、駅から5分の所に自動車教習所がある事に、なるほど納得。
戦前や高度経済成長期も瑞江が市街地だったら、こんな贅沢な土地の使い方はできませんよね。
新築の家も、ちらほら、目につきます。
このあたりの家なみは、瑞江駅ができる前からあるような気風。
ネコ発見 |
西と南への広がりが早かったのです。
戦前、関東大震災の後、急速に発展したのは品川区や目黒区、そして新宿から西。
私鉄各社は、渋谷や新宿、品川から、西へ、南へと、路線を伸ばしました。
先ほどの航空写真で、世田谷区や杉並区、中野区を見ると、建物が密集して街になっている。けど江戸川区の南部は、まだまだ農村です。 銀座日本橋までの距離は、変わらないのに。
なぜ、東は後回しになったのか? 江東区深川は江戸時代からの街なのに、そこから東への発展スピードが、遅すぎないか? と思うわけです。
考えられる理由は2つ。
1つは、横浜の存在。 鉄道会社にとっては、人口が多い街同士をつなげた方が儲かりますよね。 千葉を目指すよりも、横浜を目指した方がいい。 そうやって、鉄道が敷かれ、それに合わせて街も発展した。 という理由。 これは主に南へ街が伸びる動機付けになったのでは。
もう1つの理由は、住環境の安全性。
水害に遭いやすい所と、遭いにくい所。 どっちに住みたいか?という事。 鉄道会社にとっては、どっちを開発したいか? という事。
低地が広がり、水害に遭いやすい、東側は、敬遠されたのでしょう。 北側も同じく。
実際、大水害がきっかけで、荒川放水路(荒川)や中川放水路(新中川)が作られたんですからね。
逆に言えば、これらの放水路を造る事で、はじめて、東と北の低地が開発できるようになった…といっても過言ではないのではないでしょうか。
瑞江の公園の、カスタマイズ可能な迷路 |
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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