そして街並みも。 同潤会通りの北側は町工場が目立ちますが、同潤会住宅があった所は、今も商店が並んでいます。
同潤会通りを北から南へ
まずは戦前の江戸川区中央地区の地図をご覧ください。
この地図は{今昔マップ on the web(c)谷 謙二}{国土地理院 電子国土Webシステム}{カシミール3D}を使用しています。 この地図画像の元である地図は、国土地理院の地形図[2万5000分の1 東京首部 昭和5年測図 昭和7年6月30日発行]および[2万5000分の1 船橋 昭和7年要修 昭和7年10月30日発行]です。 |
この正体は、同潤会住宅。 江戸川区にもあったんですね。
同潤会とは、関東大震災をきっかけに結成された、戦前の住宅供給法人ですね。
同潤会の建物は時代とともに無くなっても、その区画は残っている…。
区画だけではなく、道の名前やバス停にも残っている…。
それを知って、行ってみようと思ったのです。 江戸川区中央地区。
まずは、同潤会通りの北の端。 千葉街道との交差点。
交差点の名前として残っています。 同潤会通り。
それにしても、この交差点は、いくつの道が交わっているんですかね… 9叉路?
どこまでを1つの交差点と解釈するかで、変わってくるかと思いますが… 事故らんのか(・_・?)
まぁ、9叉路もあればドライバーは気を付けますから、意外と事故は少ないのだろうと思います。
そんな事より、同潤会通りを南に進みます。
区役所付近まで南下してきました。 住所としては、江戸川区中央。 になります。 江戸川区内で地理的に中央だから、中央地区という名前なのでしょう。
ここで、少し、同潤会通りを逸れてみます。
江戸川区は全域において、住宅地ばかりだと思っていましたが、町工場が多い所もあったんですねぇ。 …しかも、区役所周辺が、そうだとは。
左には昭和なアパート。 右側には工場のダクト。
江戸川区役所 |
…それにしても駅から遠いですよね。 新小岩駅と船堀駅のちょうど真ん中ですよ。
東京23区で最も区役所が駅から遠いのではなかろうか?
もしかしたら、ここに区役所を置いた理由も、同潤会住宅が起爆剤となり発展する可能性が高いと判断したからかもしれませんね。
もちろん、地理的に江戸川区のちょうど真ん中。 というのも大きいでしょうけど。
同潤会通りに戻ってきました。
このあたりはもう、同潤会住宅の真ん中でしょうか。
先ほどまでは、町工場が目立っていましたが、このあたりは個人商店が立ち並んでいます。
このような町並みの変化も、同潤会住宅があった頃、このあたりが住宅地の商店街だった歴史の名残です。
この商店の雨よけ屋根も、歴史の名残ですね…
脇道には、同潤会が建てた同一規格の住宅が並んでいたはずですが、それは昔の話。
今は、ごく普通の下町の風景です。
道幅も広いですね。 …いや、現代の感覚では狭いんですけど、昔の住宅地の路地の幅は両手を広げたぐらいが普通なので。 …広くしたのかな?
同潤会バス停 |
同潤会バス停。 ストレートな名前です。
私としては、よく名前を残しているな… と感心します。 とっくに同潤会住宅は無くなったのに…
いや、人によっては「全然残ってないじゃないか」「もっと古い時代の風景を街並みを残してほしい」という意見もありましょう。
街歩きが好きな人が、街並みが変わる事を肯定するのは、おかしいのかもしれないけど… 時代と共に、建物が老朽化し、文化も変わり… 新しい時代に合わせて、街並みが変化するのは、当たり前じゃないですか。
…しかし、この住宅は… もしかして、当時のまま?
さらに南に歩き、同潤会通りのゴールを目指しましょう。
一見すると全面が平地で地形の変化が無さそうな江戸川区でも、地形が道を曲げる事はあるのです。
今井街道に突き当ります。
ここにも「同潤会通り」の文字を発見!
(…この構図、個人的に気に入ったので、つい載せてしまいました)
今井街道も商店が立ち並んでいます。
商店が今でも立ち並ぶ理由は、元々が街道である事に加えて、並行して都電26系統(そうなる前は城東軌道)が通っていたからです。
…そういえば、前に、この軌道跡を散歩したのでした。 宜しければ、その記事も、ご覧下さい。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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