自由が丘の発展経緯や、地形的には意外と丘じゃないぞ!という話題も、あわせて。
三十路の男がひとりで散歩する街じゃないね
なんで三十路の男が女性に人気の自由が丘に行ってみたかと言われれば「ちゃんと歩いたことが無いし」という理由でしかないんです。自由が丘。 そういえばローソン遍路のスタート地点が自由が丘だったなぁ。 それ以外で訪れた事が無いし…行ってみよう。 という事なわけですけど。
並木とベンチ… なんて絵になる風景なんだ!
ベンチでくつろいでいる人の中でそれを知っている人はどれだけいるのか…知りませんが、ぶっちゃけ、そんな事知っていても全然偉くは無いですしね。
買い物が好きで、経済的に余裕のある(あるいは経済力のある男性がいる)女性にとって、自由が丘は天国なんじゃないでしょうか。
それに、オシャレな写真が撮りたいカメラ女子も、自由が丘は似合いそう!
ミラーレス一眼をぶら下げてね。
飲食店が集中しており、ここが一番、ごちゃっとしているというか、一般的な駅そばの風景に近いです。
さらに書きますと、自由が丘で昭和な空気が残っているのは、この、駅前にある自由が丘デパートでした。
いかにも、昔からこの地域で商売してますといわんばかりの店主と店構え。 きっと、お客さんも馴染みの地域住民がメインなんだろうな…
自由が丘は、丘じゃない!?
ところで、自由が丘は、本当に丘なのでしょうか?
(この地図は{国土地理院 基盤地図情報(数値標高モデル)}{国土地理院 電子国土Webシステム}{カシミール3D}を使用しています) |
これが、駅周辺の立体地図。
自由が丘駅周辺は丘ではありません! 九品仏川によってできた窪地。谷戸地形です。
自由が丘駅の南東には、東急目黒線の奥沢駅がありますが、そちらのほうが高台です。 奥「沢」なのにね。
もともと自由が丘は、住宅地の事だった?
自由が丘駅の北側も歩いてみました。
私が思うに、自由が丘駅という駅名はそもそも、丘の上の住宅地と自由ヶ丘学園の最寄りという意味で付けられたのであって、駅前の商業エリアを指してはいなかったのではないでしょうか。
しかしながら、時代が進み、オシャレなお店が増えるにつれて… そして、都民の生活が農業から離れる事により地形に対し鈍感になった事も重なり… 自由が丘のメインは完全に駅前の商業エリアになった(そこは丘じゃないのに!) という事でしょうか。
季節外れに咲いた花は、自由が丘と咲き誇る
オシャレな商店が立ち並ぶ中に、熊野神社があります。 街をずっと見守ってきた、自由が丘の鎮守です。
碑文によると、栗山久次郎は、明治期に、この界隈が碑衾村だった頃の村長さん。 周辺の耕地整理事業を牽引し、自由が丘駅の誘致も行ったとされます。 そして、地域名も「谷畑」から「自由が丘」に変える事を決断されたそうです。
ところで、自由が丘の由来はどこにあるのか? だれが最初にこの地域を自由が丘と呼んだのか? と言うと、駅から北に10分程度歩いた所にある自由ヶ丘学園がルーツだそう。
自由ヶ丘学園の公式サイトによると、自由ヶ丘学園の開校時期は昭和2年。 昭和2年という事は、大正デモクラシーが落ち着いた頃であり、同時に盛り上がりを見せていた自由教育の風潮も衰退してきた頃ではないかと思います。
自由という名の学校が、自由教育の衰退期に開校した… これは、言うなれば、季節外れに咲いた花。 しかしそれが、今の大輪の花に繋がっています。
それは、自由教育の風潮は衰退しつつあっても、人々は、自由を求めていたからに他ありません。 昔からの地域住民はもちろんの事、関東大震災と鉄道網の発達により、山の手の郊外に家を求めたサラリーマン達は、なおの事、自由に惹かれたのではないでしょうか。
駅前広場と女神像「あをそら」 |
そして現在も、自由が丘は、ご存じの通り、超有名なオシャレタウンであり、輝かしいブランドを確立しました。 (そのブランドにあやかりたいがために、自由ヶ丘をもじったであろう「希望ヶ丘」という街が日本中に生まれました。世田谷区にもあります。)
そして人が自由を求める限り、自由が丘は現在の地位を維持できるんだろうなぁ…
名前ひとつで、街は大きく変わる。 名前は大事。 それを再確認できるのが、自由が丘という街です。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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