それは、井荻村の村長、内田秀五郎氏のおかげなのです。
ちなみに今回の記事は蔵出しで、写真が1年以上古いのをご了承ください。 記事内容を大方書いた後で「ちょっと内容が偏屈かなぁ」などと考え、下書きのままにしてたんですよね。 …でも、自分はそもそも素直じゃないし、書いておいた記事を眠らせたままにするのはもったいないので、出すことにしました。
内田秀五郎とは
杉並区の北西、善福寺川の源流である善福寺公園。
そのほとりに、内田秀五郎の像はあります。
内田秀五郎は、杉並区の北西部、杉並区がまだ区政でなかった頃、井荻村・井荻町の長であります。
杉並区における旧井荻村 |
碑文の内容は以下の通り。
内田秀五郎翁は人格高潔資性温厚天賦の才能自ら備わり有能達識の偉人地方自治開拓の慈父にして文化開発の大恩人なり明治九年十一月内田家に生る年二十一厳父を喪い独力克く父祖の業を継ぐ年三十にして衆望を担って全国一の年少村長となる爾来多年一日の如く終始渝らす説意自治の為めに生き文化の為めに生涯を捧ぐ人悉く其の徳を仰ぎ其の思恵による常に百年の計を樹て千年の後を慮る翁の雄図は大正十年電灯の布設となり昭和七年井荻水道の完成又同十年には拾ヶ年の苦節実って全国唯一の大区画整理を完遂する等社會福祉の為めの功績挙けて数うべからす又幾度か府政都政にも参与時に議長となって其の令名を讃われ今尚全国農業委員会協議會長として活躍せらる昭和十九年二月宦其の功を賞して藍綬褒章を賜う今や喜寿を祝するに方り円満玲瓏玉の如き翁の人格と徳望とは翁を敬慕する人々により地を此処に卜し寿像を建て辞を刻して永遠に伝う千載不磨の名は日月と輝き天地と倶に遣らん
東京都知事 安井誠一郎
東京都知事 安井誠一郎
…独特の石碑言葉を文字起こしするのは大変ですが、既に全文起こしてあるブログ記事がありましたので参考にさせていただきました。http://ameblo.jp/uchimizu-jimusho/entry-11514391628.html なるべく自力読解を試みましたが分からない所はカンニングさせていただきました。 「爾来=以来」「渝らす=変わらず」「社會=社会」「拾ヶ年=十ヶ年」…かぁ。難しい。
私の語学力はさておき、この碑文から内田秀五郎を略歴を読みとることができます。年齢は数え年ではなく満年齢であると仮定しました。
1876年11月(明治9年) 誕生 (0歳)
1897or98年(明治30or31年) 父が亡くなる (21歳)
1907or08年(明治40or41年) 井荻村長になる(30歳)
1921年(大正10年) 電灯の敷設(44or45歳)
1932年(昭和7年) 井荻水道の完成(55or56歳)
1935年(昭和10年) 区画整理の完了(58or59歳)
1944年2月(昭和19年) 藍綬褒章ゲット(67歳)
現在の井荻界隈に最も影響を与えた政策は、区画整理でありましょう。 区画整理は旧井荻村全域にわたるものです。 杉並区の他の地域は、道がぐちゃぐちゃで細いのに、旧井荻村の地域、杉並区の北西部の区画がきっちりしているのは、内田秀五郎のおかげなのです。
それから、井荻水道は町営水道。善福寺池のほとりから汲み上げた上質な水で、今は杉並給水所があります。
石碑に刻まれていない政策としては…
- 西荻窪駅・上井草駅・下井草駅の誘致
- 善福寺池周辺の土地を東京都に寄付し都立公園化
- 善福寺池周辺の風致地区指定
- 農業の資金調達のための井荻信用購買組合設立
- 農民の生活向上のための養蚕業・たくあん漬けの推奨
- 公害抑制を条件に中島飛行場設立の許可
などがあります。
中島飛行場では、零戦のエンジンが製作製造され、井荻のいい財源になりました。 現在は、桃井原っぱ公園となっています。
工場の開設は大正14年。 という事は、内田秀五郎、48歳か49歳の頃ですね。
現代に内田秀五郎は誕生するか
これらは「内田秀五郎」で検索すれば出てくる情報です。もっと詳しく知りたい方は、検索してみてください。
それにしても、現代に内田秀五郎のような政治家は誕生する事があるでしょうか?
内田秀五郎に関する話は、ネット上にもいくつもありますが、その締めの言葉は「現代にいてほしい」「現代の政治家は見習ってほしい」というものが多いです。
文章の締めくくりとして、そのように書くのが「おあとがよろしい」から、だと思いますが… どうも、ひっかかるといいますか。
なぜ、内田秀五郎は、これほどの業績を残す事ができたのでしょう?
3つの理由を考えました。
1つは、住民と同じ社会を共有していたから。ではないでしょうか。
現代では、住む場所と働く場所が違うのはあたりまえ。でも当時は、同じでした。農民は自分の街で畑を耕し、地主はそれを直接見ながら生活できました。 そして村長も、農民と地主の顔を直接見ながら生活できました。
村長としては「自分が頑張れば村人の喜ぶ顔が見える」という事が、一番のモチベーションだと思うのです。
今は、住む場所と働く場所が違います。住む場所は、人によっては「寝るだけ」ですし、そうでなくても、疲れを癒したり余暇を楽しむために世間から隔絶されたシェルターでしかありません。 そんな現代で、区画整理をしようとしても、土地の資産価値こそ増えるのかもしれませんが、逆に減る可能性もあるし、大して生活は豊かにならないのでしょう。 昔は農作業が効率化したり、将来宅地として売る際の資産額が増えるなど、何かしら経済的利益が見込めましたが、今は違うのですから。
「養蚕業やたくあん漬けの推奨」のような、個人で経済性の高い商品を作る事は、現代でもできるか…? 現代に置き換えると、ITビジネスを立ち上げて…とか、いくらなんでも。 現実に似ているビジネスば、徳島県上勝町「いろどり」のはっぱビジネスでしょうか。 …これと同じくらいスゴいのを思いつけるかなぁ…
現代で最も経済的生産性の高い方法はやはり… そうやっていろいろ考えると… もし内田秀五郎が、現在の地方都市で長をしていたら… 国から公共事業を引っ張ってくる事を第一に考えたんじゃないかなぁ。 と、冷めた感想を持ってしまうのです(^_^;)
1つは、未開発であり、かつ、進むべき方向性が明確だったから。 という事もあると思います。
これは、シムシティと同じです。 シムシティが面白いのは未開発だからです。 もし、シムシティで完成されつくした街をポンと与えられて「さあ楽しめ。ちなみに、わざと災害を起こして街を壊すのはナシな」と言われても、面白くありませんよね。
そのうえ、資金が底を尽きていて、借金だらけだったら尚更です。 そこからの脱却は、それはそれでゲームとしての面白さはあるかもしれませんが… 例えば、豊島区は、緊縮財政のなかやりくりして財政支出ゼロで新庁舎を建てるそうで、それはそれで名手腕ですが、それはシムシティではないし、内田秀五郎的ではない。
…内田秀五郎が現代の豊島区長だったら? 同じ事ができたかもしれないし、できなかったかもしれないし、それは分かりませんが。
現代に内田秀五郎は生まれないし、現代には現代の現状に的確に対応できる偉人が現れると思うんですよね。 その偉人はもしかしたら、政治の外側から、経済とか事業とかで社会を動かしているのかもしれません。
最後の1つは… 社会情勢とは無関係な理由で…
「21歳の時に父が亡くなったから」というのがあると思うのですよ。
もう1度碑文を引用しますと、年二十一厳父を喪い独力克く父祖の業を継ぐ年三十にして衆望を担って全国一の年少村長となる とあります。父と内田秀五郎の年齢差は、ちょっと分かりませんが、普通に厳父が生きていれば、内田秀五郎が村長である期間はもっと短かったのでは? 区画整理ができたのは、それまでの村長の仕事の積み重ねがあったからでは? そして、厳父のプレッシャーがあったら、これほどのびのびと大胆な政策はできなかったのでは? そう思うのです。
ちなみに、この頃、区画整理そのものは特別な政策ではなく、都心に近い地域では…特に(今の)品川区や目黒区周辺では、関東大震災や鉄道会社の都市開発を起爆剤に、区画整理が進められていて、内田秀五郎も、それらの地域の影響を受けたのではないかと考えられます。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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