2014年9月21日日曜日

東京の住宅開発の歴史をまとめ!

東京の街は、どのように発展したのか。 東京は、増え続ける人口に対し、どのような街を作り上げたのか?
東京の住宅開発について、代表的な団地を中心に、一覧にまとめてみました。



とはいえ私は大学の研究者ではない、いち個人です。 個人の趣味の研究であります。 まだまだ知らない街もあるとは思いますし、間違いや至らない点もあるかと思います。 ご了承ください。

また、ブログ記事にした街は、記事のリンクを貼りましたので、よろしければ。

戦前の住宅開発



主に住宅開発を行ったのは鉄道会社です。 郊外に線路を敷き街を作る…という理論は、関西で成功していた阪急電鉄の小林一三により生み出されました。 関東大震災は、すでに過密状態になっていた都市部に住む人々が郊外へ移住する大きなきっかけになりました。

街づくりの理想は欧米の田園都市であり、目指したのはゆったりとした健康的な生活。 その考え方は街の区画にも反映されているのか、戦後の住宅地には見られない、カーブを多用した街も見られます。


新町分譲地(桜新町南部)


場所:東京都世田谷区深沢7丁目および8丁目
開発時期:大正期
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/04/sakurashinmachi.html

東京信託株式会社が開発した、桜並木が美しい高級住宅地です。

桜新町といえばサザエさんの街で有名ですが、新町分譲地は桜新町の市街地から少し南にあります。 住所は桜新町ではなく深沢です。 

桜新町という名前の由来は新町分譲地の桜並木ですが、新町分譲地は桜新町ではない。 という、ちょっと複雑な事になってます。

これは、新町分譲地が、時代の流れの中で、桜新町という名前ではなく、深沢という名前を選んだ。 という事だと思うのです。

そう言われると「新町」なんて、なんか青臭い。 「深沢」のほうが、なんとなく趣がありますよね。




田園調布


場所:東京都大田区田園調布3丁目周辺
開発時期:大正後期
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2013/10/denenchofu.html

現在の東急、当時の田園都市株式会社が開発した、言わずと知れた高級住宅街です。

田園調布駅の西口を出ると、目の前には花壇と、渋沢栄一を湛える石碑。 視線を遠くに向けると、放射状に広がる並木道。 後ろを振り向くと、淡い赤色の屋根が映えるモダンな駅舎…。 どれも絵になります。


田園都市株式会社は同時期に、洗足駅周辺、大岡山周辺も開発しました。 大岡山の開発地は、東京工業大学になっています。 (関東大震災で被害を受けた学校側が田園都市株式会社に土地の等価交換を求めました)

新町分譲地
新町分譲地 田園調布駅舎 田園調布駅前広場



成城


場所:東京都世田谷区成城
開発時期:大正後期~昭和戦前期
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2013/05/seijou.html

成城学園が開発した高級住宅街です。

小田急線の開業を見込み、学校の建設運営費を賄うために宅地開発を行いました。 良質な武蔵野の土地に誕生した学園都市は、現在も高いブランドを維持しています。

成城のブランド化の一因として、昭和5年に新聞社主催の住宅展覧会が行われたそうです。 模範文化住宅の設計を募集し、十数棟を住宅地の西側に建設、展覧、即売を行うというものでした。


立派な並木道に、お屋敷が立ち並んでいる風景は、とても絵になります。




…しかし、そのお屋敷街の先にあったものに、私はびっくりしました。 100円ショップがあったのです。 中規模の100円ショップです。 成城のお屋敷に住む資産家も、けちけち100円ショップで買い物するのです。 これでは経済が回るわけがありませんね。





ときわ台


場所:東京都板橋区常盤台1丁目および2丁目
開発時期:昭和戦前期
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/04/tokiwadai.html

東武が開発した住宅地ですが、元々は車両基地にする予定でした。 西新井と上板橋を結ぶ路線を建設するにあたり、その車両基地の用地を確保していたのです。 しかし路線計画は頓挫。 用地は住宅地として利用する事にしました。

クルドサックと呼ばれる小さなロータリーに、プロムナードと呼ばれる並木道。 そして、ゆったりとしたカーブが主体の区画。 戦前の住宅地の理想が、街の区画に刻まれています。

この設計を行ったのは小宮賢一氏。 しかし大学を卒業して1,2年の頃であります。 東武鉄道は若者の大胆で柔軟な設計を採用したのです。 後に小宮賢一氏は上司に連れられ、完成した ときわ台を見て、自分が設計した街が現実化している事に驚いたそうです。

その特徴的な区画に魅せられたせいでしょうか。 ときわ台にはお屋敷が立ち並んでいます。 立派な高級住宅街です。


目白文化村


場所:東京都新宿区中落合の一部
開発時期:大正期
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/07/mejirobunkamura.html

現在の西武、当時の箱根土地が開発した住宅街です。 その場所は、現在の西武新宿線中井駅から北北東に500メートルのあたり。新目白通りと山手通りの交差点付近です。

電気・水道・ガス・下水道の設備を整え、テニスコートや相撲柔道道場などの福利厚生施設もありました。 一時は箱根土地の本社も移すほどの力の入れようだったそうです。

しかし、本社は3年後、新たな開発地である国立に移転し、福利厚生施設も数年で宅地として売却されます。 …それらは見せ玉だったのでしょうか?

戦前までは高級住宅街として名をはせたようですが、空襲で壊滅。 目白文化村のブランドも無くなり、今は普通の住宅地です。 ただし、中井駅に近い高台には立派な家が見られます。

成城 ときわ台 目白文化村
成城 ときわ台 目白文化村



大和郷


場所:東京都文京区本駒込6丁目
開発時期:大正期

明治期、六義園とともに岩崎家(三菱創始者)の所有となっていた土地が、大正期の土地開放ムーブメントにより宅地となった街です。

豪邸が立ち並ぶ街として知られており、大和郷を歩けば立派な邸宅がたくさん目に入ることでしょう。

とはいえ、大和郷すべてが豪邸で敷き詰められているわけではなく、駐車場やマンション、普通の住宅になっている箇所も結構あります。


また、大和郷にはひときわ目立つ、パルテノン神殿のような建築物がありますが、それは邸宅ではなく宗教施設のようです。  …やっぱ宗教法人って、儲かるんだなぁ。 なんて事も思ったり。



駒込西片町


場所:東京都文京区西片
開発時期:明治~大正期


福山藩阿部家が自身の屋敷の敷地を不動産開発してできた街です。

江戸時代はあぐらをかいていれれた大名たちは、時代が変わって失業。 さてどうやって食っていこう? 不動産開発でしょう! …という感じでしょうか。

電気・ガス・水道などのライフラインはもちろん、区画内での商業店舗の営業を禁止したり、電線を地中にするなど、良好な住環境を作るための工夫は惜しまなかったようです。

おかげで高級住宅街に発展。 東側には東京大学がある事から、学者や文人(夏目漱石や樋口一葉など)が多く住んでいたとされています。

現在は、豪邸が立ち並ぶという印象ではありませんが、文京区自体がブランド化しておりますし、高級住宅地である事は間違いないでしょう。 西片町の大部分は第1種低層住居専用地域に指定されており、高台でもあるため、住環境は良好であります。


渡辺町


場所:東京都荒川区西日暮里4丁目
開発時期:明治~大正期

開発したのは、戦前に存在した渡辺財閥。 荒地となっていた旧秋田藩佐竹家の領地を住宅地として開発しました。 街路には桜が植えられ、上下水道・ガス・電話もありました。 名門の開成中学校も移転してきており、それは現在も残っています。 逆に言えば、それ以外の面影はありません。

渡辺町があったのは、西日暮里の開成中学校・高等学校のあたりです。

その町は渡辺町と呼ばれるようになりますが、正式にその町名がつけられたのは、昭和7年から、わずか2年だけ。 しかも正式な町名になった頃には、渡辺ブランドは墜落していました。

その原因は、金融恐慌。 渡辺財閥がもつ東京渡辺銀行に取り付け騒ぎが発生し、銀行が破たんしたのです。 



話はそれますが、渡辺財閥が経営してた銀行は他にもあり、その名は「あかぢ銀行」 縁起悪すぎ! …名前の由来は 渡辺財閥の屋号「明石屋治右衛門」から「明」と「治」を取ったものだそうですが…もしかして、この頃は、赤字という言葉が無かった!?



大泉学園


場所:東京都練馬区大泉学園町6~8丁目周辺
開発時期:大正後期
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2013/06/oizumigakuenmachi.html

大泉学園が学園タウンだというのは大間違い! 正しくは、学園タウンを目指したけど失敗しタウンです。

また、その場所も、西武池袋線の大泉学園駅周辺ではなく、駅から2.5キロほど北にあります。 
ぴっちり長方形に区画整理されているエリアが大泉学園です。

学校の誘致には失敗しましたが、大泉学園は戸建て住宅が立ち並ぶ住宅地となりました。 そして、社長が多く住む町トップ3に入っているという話もあり、それなりのブランドを獲得しています。

現在の西武。当時の箱根土地が開発しました。



ところで、大泉学園を歩いてみると目につくのが「大江戸線延伸を!」と主張する看板です。 はたして、その日は来るのでしょうか?

大和郷 渡辺町 大泉学園
大和郷 渡辺町 大泉学園



国立


場所:東京都国立市 JR国立駅南部
開発時期:大正後期~明治戦前期

国立も西武(当時の箱根土地開発)が開発した街です。 言われてみれば、駅から南側に放射状に延びる道は計画的に作られた街そのものですよね。 

国立という名前は、国分寺と立川の間だからです。


(かなり話がそれるので小文字で。
西武の開発地が続いたので、その他の開発地も書き記しておきますと、小平もそうです。 また、ものの本によると、荏原郡目黒町の小滝園や小石川区久世山をはじめとして、大正期の土地開放ムーブメントで開放された、資産家の土地を、どんどんGetしては宅地開発して儲けたそうです。
宅地開発ではありませんが、現在の渋谷道玄坂には、関東大震災で被災した下町の名店を集めた商店街「百軒店」を作り、現在の新宿歌舞伎町には、新宿園という遊園地も作りました。
しかし百軒店は下町が復興するに従い名店は元の土地に戻ってしまい、新宿園に至っては経営がうまくいかず、わずか2年で閉鎖。 そして開発した数々の住宅街も、現在ブランドが残ってるのは、大泉学園だけ。 しかもそれは、強いて言えば。というレベル… 
住宅開発という視点で西武を見ると「下手だなぁ」という印象がぬぐえません。 東急には田園調布があり、京王には聖蹟桜ヶ丘があり、小田急には(小田急が開発したわけではないが)成城があり、東武にはときわ台があるのに…)




同潤会住宅・同潤会アパート


場所:各地
開発時期:大正後期~明治戦前期

同潤会は、関東大震災後の住宅不足を補うために、当時の内務省により設立された財団法人。 表参道ヒルズに同潤会アパートの外観が保存されているのは有名ですよね。

また、場所によっては区画に名残があります。 道路の区画や建物の建ち方が、なんか不自然だと思い、古い地図を見てみると、同潤会住宅の跡地だった!という事があって、面白いのです。

具体的には、品川区の中延小学校の南向かい(品川区中延2丁目3)と、江東区の第7砂町小学校の北(江東区東砂3丁目12周辺)で発見したのですが、他にも、あるかも!?




戦後の住宅開発


住宅公団の団地や都営団地がどんどん建ちます。 戦後のはじめはまだ、一戸建ての住宅地や、阿佐ヶ谷住宅のような低密度の団地もあったようですが、所得倍増計画が発表される60年代になると、住宅はできるだけ多くの人を詰め込めるよう高層化・高密度化の道を進み始めます。 まだ農村の域を出ていなかった足立区・葛飾区・江戸川区は特に、人口増加の受け皿になりました。

21世紀が迫るころには、スーパー堤防などの防災目的を兼ねた団地開発や、タワーマンション、デザイナーズマンションといった、新しいカテゴリが誕生します。


阿佐ヶ谷住宅


場所:東京都杉並区成田東4丁目
開発時期:1950年代

住宅公団初期の作品。 作品といっていいほどの完成度であり、「伝説」「奇跡」とも言われるほどの団地です。

赤い屋根のテラスハウスは、オシャレそのもの。 コモンと呼ばれる緑地スペースは、個人の敷地と近隣住民のスペースを緩やかにつなぎます。

60年代以降になると、団地は高層&密集化してしまいます。 阿佐ヶ谷住宅は、住宅公団がその使命を背負う前の、自由で若々しい状態から生まれた団地と言えます。

現在は再開発により、すべて取り壊されております。


ひばりヶ丘団地


場所:東京都西東京市ひばりが丘三丁目および東久留米市ひばりが丘団地
開発時期:1950年代

日本全国に開発される団地の手本となった団地です。 当時としては最大の規模であり、団地内商店街などの施設をはじめて設置したと言われています。 当時の皇太子・皇太子妃(現在の天皇・皇后)も視察に訪れたほどです。 

現在は老朽化にともない、建て替えが進んでいるそうです。


ちなみに、地元の人の中には、ひばりヶ丘の事を「ヒバリーヒルズ」と呼ぶ人がいるそうです。 …まぁ間違っちゃいない。


桐ヶ丘団地


場所:東京都北区桐ヶ丘
開発時期:1950年代
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2013/04/akabanedai-kirigaoka.html

都営桐ヶ丘団地のある赤羽は、軍の施設により発展した街。 桐ヶ丘団地も、もとは火薬庫でした。

その火薬庫には、終戦直後、引き揚げ員など行き場を失った人々が集まって生活していたそうです。それは赤羽郷と言われ、それが桐ヶ丘団地のルーツと言われています。

桐ヶ丘団地の隣にある赤羽台団地も、もとは軍の被服庫です。 また、桐ヶ丘団地と赤羽台団地の近隣ある遊歩道は、元は鉄道の引き込み線です。




ちなみに、赤羽に住んでる奥様の事を「アカバネーゼ」と言うとか、言わないとか。


高島平


場所:東京都板橋区高島平
開発時期:1960年代~1970年代

広大な徳丸田んぼは都内最大規模の団地に変貌しました。

当時の公団住宅は時代の最先端を行く憧れの住宅であり、特に若い夫婦が入居を希望したとされています。 そして時代は流れ、高齢化が問題になっています。 高島平も例外ではないそう。

だからなのか、高島平を歩いていると、昭和のままの雰囲気に包まれている気がするのです。

時代は過ぎても、最先端の住宅で生活できる幸福感が、そのまま残っている。 そんな団地です。


桐ヶ丘団地遊歩道 高島平 高島平
桐ヶ丘団地 桐ヶ丘団地遊歩道 高島平 高島平



竹ノ塚


場所:東京都足立区竹ノ塚
開発時期:1960年代
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2013/12/takenotsuka.html

都市開発の話題で竹ノ塚が出る事はあまりないと思うのですが、個人的に好きな街ですし(おい)、住宅公団が開発した街である事は間違いないので、ここで取り上げたいのです。

住宅公団は、竹ノ塚第1、第2、第3団地など、2808戸の団地を建設し、さらに区画整理後の新市街地を一般公募で分譲しました。 戸建て住宅地も公団が開発したのです。


竹ノ塚は、団地だけではなく、土地区画整理事業の跡も確認できます。

竹ノ塚周辺には、元淵江公園をはじめ、いくつかの公園があります。 それらは第1、第2、第3…と番号が振られているのですが、同じ名前の公園がいくつもあるのは、土地区画整理事業で区画整理された街の特徴です。 それを踏まえて地図を見ると、道路の区画は、碁盤の目とはいかなくても、意図的にデザインものだと実感できるでしょう。 特に、元淵江公園の前にある大通りは、綺麗なカーブを描いており、自然にできたものではないのがお分かりいただけるはずです。


足立区は高度経済成長期に、急激に増加する人口の受け皿となりました。 足立区の風景の特徴は、戸建て住宅の合間に、団地がぽつぽつとある事です。 竹ノ塚は、そんな足立区らしい風景も持ち合わせています。

そんなわけで、竹ノ塚は、戦後の街づくりを実感できる街です。 隣駅の西新井には、工場跡地の再開発により、ピカピカのタワーマンションと大型ショッピングセンターが建つ現代的な街が誕生していますが、竹ノ塚は、まだ、昭和な空気感で満ちていて、それがまた、ほっこりと、かわいらしい街だと思うのです。


聖蹟桜ヶ丘


場所:東京都多摩市桜ケ丘
開発時期:1960~70年代前半

京王が開発した高級住宅街で、ジブリ映画「耳をすませば」でも有名ですね。 いろは坂の上に整然と並んでいる戸建て住宅。 街の中央にはロータリー。 非常に絵になる街です。 アニメの舞台になるのも納得です。 (今思えば、ヒロインの恋人がバイオリン職人志望というのも、ボンボンらしくていかにも聖蹟桜ヶ丘です)

都内を代表する高級住宅街は戦前から歴史があるものが多いのですが、聖蹟桜ヶ丘は戦後に開発されました。

聖蹟桜ヶ丘には京王の本社もあり、それゆえに特急電車も止まります。 京王がチカラを込めて育てた高級住宅街とも言えるのではないでしょうか。


多摩ニュータウン


場所:東京都多摩市および八王子市など
開発時期:1960年代~
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/08/tama-newtown.html

多摩ニュータウンとは、多摩市や八王子市などに広がる、団地群の通称です。 ジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」でも有名ですね。

多摩ニュータウンにはいくつかの鉄道駅がありますが、最も大規模なものは多摩センター駅です。 多摩センター駅周辺は大型SCや百貨店が充実しています。 あの猫のキャラクターで有名な某テーマパークもあります。

開発時期についてですが、開発終了時期を決めることはできません。 理由は、エリアが大きすぎて常に変化していると思われるためです。 最初の入居がはじまったのは1971年ですが、その時点で建設途中の建屋もあったはずですし、まだ施工も始まっていない地域もあったと思われます。 1971年は多摩センター駅すらできていません。 また、多摩センター周辺の商業エリアが現在のように発展するのも、少し先になります。(例えば、駅前広場と丘の上プラザができたのは1980年(昭和55年)です。 そして現在も、初期に建てられた建屋の建て替えが行われています。 


光が丘


場所:東京都練馬区光が丘
開発時期:1970~80年代
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/03/hikarigaoka.html

戦前は成増飛行場。戦後は米軍のグランドハイツだった土地が返還されたのは昭和48年(1973年)。 入居開始は昭和58年(1983年)です。

団地中央には大江戸線光が丘駅とショッピングセンターが集まり、生活に便利です。 団地の商業施設といえば団地内商店街ですが、光が丘団地の頃にはすでに個人商店から大型SCの時代に移行していたのですね。

団地の北にある光が丘公園の面積は、東京ディズニーランドを超える60ヘクタールもあります。 

光が丘団地は、戦後の団地開発の完成系と言えるでしょう。 この後も団地は作られますし、老朽化した団地の建て替えも行われますが、宅地開発の花形は団地からタワーマンションに移行します。

竹ノ塚 聖蹟桜ヶ丘 光が丘
竹ノ塚 聖蹟桜ヶ丘 光が丘



汐入団地


場所:東京都荒川区南千住8丁目周辺
開発時期:1990年代~2000年代
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/03/hikarigaoka.html

汐入団地は、かなり特殊な団地です。 たいてい、団地というのは、未開の地や工場跡地など、まとまった大きな土地に作られるものです。しかし、汐入団地は、街がある所に団地が作られました。

汐入団地再開発の目的は、宅地開発のみではなく、スーパー堤防による防災都市を造る目的もあります。

既存の街をまるまる潰して再開発することができた理由の1つとして、住民はほぼ借地で、地主が少なかったからであると言われています。


ちなみに汐入団地の川向いにある白髭団地もすごいです。 団地が長城のように連なっていて、防火壁の役割をしています。 団地の東側に住んでいる鐘ヶ淵や向島の住民は、いざというとき、白髭団地をくぐって、東白髭公園に避難できる。 というわけです。


豊洲・東雲


場所:東京都江東区豊洲および東京都江東区東雲
開発時期:1990年代後半~
ブログ記事:http://toutoi-tokyo.blogspot.jp/2014/01/tatsumi-shinonome.html

平成の住宅開発を見たければ、豊洲と東雲だと思います。

昭和時代は、工場と貨物港と貨物列車引込線が入り乱れる一大工業地域でしたが、平成になると、タワーマンションが立ち並びました。

また、平成になると、建物にデザイン性も考慮されるようになります。 その時代の流れで誕生したのが、東雲キャナルコートCODAN。 公団ではなくCODANです。 オシャレです。 窓の形とかも、オシャレです。


ちなみに、東雲の東隣にある辰巳には、昭和の香りただよう辰巳団地があります。 現在も現役ですが、建て替えも近いと思われますので、昭和と平成の宅地開発を一度に味わうならば、今のうちですよ。


汐入団地とスーパー堤防 東雲デザイナーズマンション
汐入団地とスーパー堤防 東雲デザイナーズマンション




参考文献

目白文化村 野田正穂 中島明子編 日本経済評論社
地図と愉しむ東京歴史散歩 地形篇 竹内正治 中公新書
封印された東京の謎 小川 裕夫 彩図社
せたがやの歴史 世田谷区
足立区風土記稿 足立区郷土博物館
文京ふるさと歴史館だより 第18号(http://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/column/rekishikandayori_18.pdf)

その他、Wikipediaなどウェブサイト多数

今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!



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